| サブボディ共振塾ジャーナル | ||||
2011年10月31日 命の味わい 10月の最後の週、生徒たちはほぼ全員30分のソロを踊った。 無限に変容する死者の技法とは、命の全域をくまなく旅する踊りを創ることになる。 見ていて息を抜く隙がないほど密度の濃い踊りが出来上がってきた。 踊りの味わいが人間のというよりは非二元かつ多次元に共振している命のそれに近づいてきた。 命の味わいは言葉では言いようのないほど深い。 とうとうここまで来たのだと、感慨がこみ上げる。 自我や自己を脱ぎ、ここまでからだの闇を掘り抜くことがどんなに苦しいことか、 私にはよくわかる。 いつなんどき、思いがけぬエッジ・クオリアに見舞われるかわからない。 毎日誰かが耐え切れずに泣きに来る。 わたしはただただその苦しさに共振する。 これから一ヶ月、最後の正念場を迎える。 すべてのサブボディ、コーボディのつつがない誕生を祈るばかりだ。 「共振塾ジャーナル」をもっと読む
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2011年10月27日 水辺のノマド 10月の3週目の週末、生徒たちは近くの温泉の出る川辺に出かけた。 それぞれに自分のお気に入りの場所を見つけ、踊りを創った。 水辺ではどこか、この世と他界がかすかに共振し、入り交じっているようなところがある。 特に、古いヒンドゥ寺院の聖域となっているこの河原は、 黄泉の世界に続く三途の川の河原の雰囲気が濃く漂っている。 上流の川辺には多くのヒンドゥ教の死体焼き場があり、その灰はそのまま川に流される。 インドの川は生命が死に帰り、また新たな生命に生まれ変わる循環の場所なのだ。 無限変容する死者になる技法を学んできた生徒たちには、 それぞれの背後世界や深淵に触れるうってつけの場所だ。 Googleのピカサを使って写真を編集していたら、いつのまにかYoutubeにアップロード出来る機能が できてるのに気づいた。 どんな出来なのかわからなけれど、どちらにもアップして見ました。 |
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2011年10月16日 透明ノマド コーボディ 共振塾ヒマラヤは、Lee抜きで、2週目を迎えた。 長期生のKatsをはじめ、各生徒が交互に産婆として毎日の授業をガイドしている。 週末の金曜日、恒例のサブボディ・コーボディ劇場では 生徒たちは透明なノマドの群れになった。 透明になる 「透明」とは、内と外に半分ずつ開かれたからだになることを指す。 内側の自我や自己にも、外側の他者にも、囚われることなく 命のおもむくままに動き、変容できるからだになる。 「透明体」になることは、踊りを始めた十余年前から一貫して私のひそかな究極の理想であった。 なぜ、透明さにこだわるのか、自分でもよくわからないままそれを追い求めてきた。 そして、同様に、なぜこんなにこだわるのか自分でもわからないまま、 土方の「静かな家」に取り組み続けてきた。 今週の生徒たちの踊りの写真を見ながら、 わたしは透明さへの無意識的な志向に導かれて、 土方の「静かな家」に踏み込んできていたことに気づいた。 「死者は静かにしかし限りなくその姿を変えるのだ 彼等は地上のものの形をほんのふとした何気なさで借用することも珍しくない」 (『静かな家』第2節) この一年、「静かな家』を学び、<死者の変容技法>を学んできた生徒たちのからだが いつのまにか、ずいぶん透明になっているではないか。 しずかにしかし無限に変容する死者になるとは、 まさしく、長年追い求めていた透明体になることだったのだ。 透明になるとは、自我や他者を消すこととは少し異なる。 踊りの中にはいろんなものが出てくる。 自我や他者のみならず、見知らぬ元型や、 ほかの生き物や人物がのりうつってくることもある。 出てくるものはすべて踊るに値するものだ。 大事なのは、だが、それらに囚われないことなのだ。 からだの闇から出てくるものすべてを踊りつつ、 自我にも自己にも他者にも元型にも憑依にも囚われない、 それが<透明さ>だ。 <ノマドの群れになる> もうひとつは、絶えず変容するノマドの群れになることだ。 単独のサブボディは、絶えず多数のコーボディに変容し 、 いつでも群れから離れて、単独に戻る。 それがリゾームだ。 そして、自在に移動するリゾームは、同時にノマドとなる。 命の世界では、一と多の間に仕切りがない。 個と群れは、二元論のいうように別概念ではなく、 命の相の違いにほかならないのだ。 ノマド劇場とは、自在に踊る場所を変えながら、 個と群の間を行き来し、 共振のし方を発明し合いながら踊る実験の場である。 10月に入って、一年間積み重ねてきたものが、生徒たちのからだの闇で発酵し、 重合し、多層化して、どんどん複雑で多次元かつ非二元なものへと成長してきている。 共振塾を離れた日本から、それが確認できるのはうれしいことだ。 もう、私なしでも十分うまくやっていける。 毎日が、「死ぬにはもってこいの日」となる。 おっと、今はそうは行かない。 インドビザの申請が、年々難しくなってきて、 この難儀さが頭のなかにかすがいのように打ち込まれている。 通常なら3日で出るはずの就学ビザが、もう2週間も足止めになっている。 なぜ、私の居場所を決めるのに他の誰かの許可を求めねばならないのか。 これは、命にとって根源的におかしいことではないのか。 人間だけが自分たちが創りだした桎梏に囚われて生きる存在である。 法、宗教、国家が現代でもなお残るそれら桎梏の代表である。 だが、同時にそれらが桎梏であることに気づけば、 ただちに廃棄することもできる存在だ。 過去の時代の人々は、その時代に特有の共同幻想的な桎梏、 様々なタブーや、植民地主義や、奴隷制度にとらわれて生きていた。 その時代の人にとって、それらがなくなることは想像を超えたことであったろう。 同様に、現代の人は国家や法や宗教が死滅した世界を想像することができない。 だが、歴史のなかで、タブーや植民地主義や奴隷制度は、 ある日嘘のように力を失い死滅してきた。 それと同様に、国家も死滅する日が来る。 想像力や想像力を制約するこの不自由な囚われの源を解き明かすまでは、 まだ、死ぬわけにはいかない。 (この記事は、「共振塾ジャーナル」として書き始めながら、 途中で私の個人的な探求である「からだの闇を掘る」の内容に移行した。 どちらにも掲載することにします。) |
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